2015年2月21-22日での
宮城県遠田郡
真言宗智山派 神寺不動尊 松景院さんでの1日山伏修行。
前回の記事で書いたとおり、修行の詳しい内容は他言できないのですが、
ものすごく盛りだくさん!!
短い時間にも関わらず本格的な修行内容で、ちゃんと十界を修行で巡ることができて、もうすごい達成感です。
内容が濃いぶんだけ、一度教わっただけではなかなか身につかないこともあるので、自分で日々復習したりまた参加して自分のものに出来るよう努力したいと思いました。
松景院さんでは、普段から滝行も出来るそうです。なので、滝行だけどうだったか書きます。
修行のときにだけ水が流れるエコな滝場が境内にあります。
入る前は寒いなぁとおもったり緊張したりしますが、滝に打たれてるときは何も考えられません。
それがイイ!!笑
打たれている時間は、自分で決められます。
終わったあとにとてもスッキリしていたので、せっかくだしもっと長く打たれていれば良かったかな〜と思いました。
今回の修行で考えたことが2つあります。
「人の所為にしない」
ということ。
わたしは修行フリークで、各地の修行に参加していますが、それは何も超能力のようなスーパーな力がほしいからとかではなくて、不思議といつでも、こういった今の自分に必要な言葉を必ず聞くことが出来るからです。
今回は職場の人間関係ですごく悩んでいた時期だったのですが、自分が辛いときってそれでいっぱいいっぱいになってしまって、親とか友人とか近い人に正しい事を言われたとしても、なかなか素直にきけなかったりする。
“そんな正論をききたいんじゃない!”みたいな笑
でも、住職さんや昔のお坊さんが言っていた言葉っていうふうにきくと、なぜか素直に心に入ってきます。
いつも、”もしかして今の私の悩みを知っていて言っているんじゃないの?!”
と思うくらい必要な言葉がきけるので、わたしは修行に参加しているのかもしれません。
なにか人間関係でうまくいかなかったり、自分が傷ついていると、つい防衛反応のようにまず相手を非難してしまう。
実際に相手が悪いところがあるかもしれないけれど、関係が悪化するのには双方に理由があって、相手を責めること前に自分はどうだったのか反省することが必要だったんですよね。
頭ではわかっていてもなかなかそれが難しくて、自分を正当化することばかり考えがむかってしまいがちだったのですが、相手からの仕打ちは置いといて、自分の足りないところを反省して、相手の良い部分を認めたり感謝の言葉を言おうと決めました。
で、修行から帰ってから実践したところ、なんと何ヶ月にもわたってこじれていた人間関係がびっくりするほど
なんだ、こんなことだったのか!と拍子抜けするくらいで、絶対態度が軟化しないと思っていた人でも、
こちらの態度が変わると相手も変わるものなんですね。
自分ひとりではこうゆう考え方に心から変わることは無理だったのですが、やっぱり修行に参加して、
仏様の前とかで嘘偽りない人間でいようとおもうと、ごまかしができなくて、本当に反省することができました。
そういった自分を客観視する時間をしっかり持つことができるので、やっぱり神社仏閣っていい!!
と思いました。
2つめは、修行や宗教の意味とはなんなのかということです。
宮城県のお寺ということで、今回の修行参加者の中には東日本大震災で被災された方や、
ご家族を何人も亡くされている方がいらっしゃいました。
ご家族の供養のために修行に参加された方のお話は壮絶で、同じ家の中にいても家族3人は
津波で亡くなり、自分だけ生き残った、なんで生き残ったのが自分なんだろうと考えてしまうおっしゃっていました。
あのとき起こったことは、こんなふうに少しの違いで生死が分かれて、とうてい納得のいかないようなことが、
圧倒的な力で襲いかかってきたんだなとお話しを聞いておもいました。
こういう問いに、真摯に納得いく答えをするのは、やっぱり宗教的な答えしかないのではとおもいます。
日本人は宗教に対してあまり意識を向けないから、実は宗教的に考えていてもそうとわかっていなかったり、
「宗教」という言葉だけでなんか怪しいとか怖いとか良いイメージがなかったり、ひいちゃったりするけれど、
元々生きるため、生きやすくするための人生の哲学が宗教だとすれば、実際に自分ではどうしようもできないほどの理不尽な力で、生きていくことが困難になるほど希望を奪われるうよなことが起こったとき、その出来事自体に「なぜ」という問には答えがなくても、その後生きていくということに対して
「なぜ自分は生き残ったのか」
という問いには、なにか意味があるから、なにか価値があるからだ、ということが言えるし信じられるとおもうんです。
世の中的に、宗教対立による争いや宗教の解釈が過激なテロ組織などの活動がニュースになると、
ネットなどでは宗教なんてロクでもないとか無くなればいいのにとかまた極端な意見が出ていることもあります。
でも、この世の中には、想像を絶するような、話を聴いて自分に置き換えたらと想像するだけで苦しくなる現実に生きてる人がいて、
そうゆう自分のスケールでは答えが出せないこと、受け止めきれないことに直面したとき、
自分や自分の大切な人を信じる、自分の人生の価値を信じる、自分以外の何かを信じる、何か意味があると信じる、希望があると信じる…
生きるために「信じる」気持ちがどうしても人間には必要です。
山伏の修験道は”道”であって宗”教”じゃないので、これは修験をあとから宗教的に解釈したりと、また違う話題なので別に書きたいとおもいます。
修行の最後には久しぶりのごはん。
漬け物がすごく美味しかったです。
駅西にあるアーケード“クリスロード商店街”の中ほどに、突如店と店の隙間にこんなふうに神社が出現します。
この三瀧不動院のお不動さんは眼の守護仏でもあるそうです。
わたしが立ち寄った時間が夕方遅かったので仲見世は閉まっていたのですが、
ここには「仙台四郎」グッズが販売されているそうです。
仙台四郎とは江戸時代から明治時代に実在した人物で、仙台で福の神として多くの人に愛されているようです。
彼は知的障害で話すことができなかったけれど、元々聡明で、
彼が立ち寄る店は必ず繁盛し、存命中から各地でもてなされたそうです。
今では障害や染色体異常や様々な“違い”をわたしたちは科学的な説明で理解しているけれど、
昔はそれをそのときの人々の解釈で、神聖なものに捉えたりときに崇めたり恐れたりしてきたんですね。
せっかく仙台にきたので、夜行バスまでの時間に夕食は牛タンを食べることにしました。
限定数で〝芯たん″という、タンの根元の特に柔らかい部分の定食です。
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マモル君です。今日はサトちゃんに元気をもらいました。有り難う。きっとまた逢えることを願っています。
マモルさん
コメントありがとうございます!
お久しぶりです。無事お遍路終わりましたので、これからブログ更新しようと思います。
またどこかで!