ナナとアキちゃんのはなし


実家を離れて、最近よく道を歩いているときに、犬に反応してしまいます。

去年の年末に看取った愛犬は黒柴の雑種だったので、特に柴犬をみると目で追ってしまいます。
柴犬だけじゃなくて、可愛がられている犬を見ると、“良かったね~”という温かな気持ちになって、涙ぐみさえしてしまいます。笑
不審者ですね笑

犬ロスだけでなく、ようやく懐いた元野良猫を実家に残してきたので、猫をみても絡みたくなりつい寄って行ってしまいます。
でも当然ながら野良猫はなかなか触らせてくれないので、やっぱり実家の猫が恋しくなったり。
たまに懐っこい子がいると、連れて帰れない現状が悲しくなったり。

また、同じく年末に看取った祖父のことも、最近京都で納骨を行ったこともあり、よく思い出します。

 

そうそう納骨、最近は納骨もビジネスライクなんですね。

京都に本山のある宗派なので、祖父の納骨には親戚が京都に集まりました。
見送られる方が老人ということは、見送るほうも大抵老人なので、親戚にも高齢者がいて、暖かくなってから法事をしようということで先日おこないました。

行ってみると本山なだけあって沢山の人がいて、“こんなに納骨される人、する家族が今日この場にいるのか~”とびっくりしました。
で、骨壺の取り間違え防止のために名前シールを貼ったり、一気にお焼香するので大勢の名前を読んでいたりして、
弟が“銀行の待合室みたいで笑える”と言っていたけど、ほんとそんなかんじ!!笑

お経は、さすが本山、さすが京都、お坊さん皆めっちゃ良い声でした!!!

お坊さんなんだから当たり前っておもうかもしれないけど、そうでもない。
実家のほうの寺のいつも法事にくるお坊さんは残念ながら慢性鼻炎で、しょうがないかもしれないけどほんとにお経の声が聞き辛い・・・。
わざわざ頼んで来てもらっているので、ちょっと残念な気持ちになっているのが正直なところ。

やっぱり、朗々とした声のお経ってありがたいパワーがあるとおもうので、美声であるって僧侶の才能の一つじゃないかとおもいます。

でも、その京都の美声のお経が始まったと同時に、案内のお坊さんが大声で「空いてるところからどんどんお焼香してくださ~い、前に詰めてください!」と案内するので、浸るってかんじじゃない笑。

さらにお焼香後、納骨堂に移動する前に、身内がやっぱり老人なのでトイレが頻繁で、トイレに向かったんですね。
で、歩くのも遅いし最初方向も間違うし、でうちの家族はその回では一番最後に納骨堂につきました。

わたしが骨壺持っていたので先に行っても良かったんですけど、これでもうホントにお祖父ちゃんの骨とは最後のお別れだし、待たないで先に行ったらどんどん儀式が進んじゃうとおもったのでトイレ待ちをして、それからお堂に向かいました。

そしたら、わたしたちがついたときには骨壺係のお坊さんが、もう明らかに“早くしろよ~”という顔で待っていて、もうほんとに顔に出ていたのでおもわず笑ってしまいました。もうちょっと隠そうよ!笑

向こうも仕事だし、こっちは最後の別れだろうと相手にとっては毎日何十回何百回とこなさなきゃいけない段取りだし、次の回の時間もあるしどんどんさばいていかないといけないんだろうな~というのはよくわかります。

きっと骨壺持つ係のひとも、あれは重くて大変だったんだろうな。

でも、あまりにも、作業的すぎじゃないか?!とわたしはおもいました。

たかがトイレに行くのを待つくらい、ほんの数分だし、そんなことくらいで顔に出すほど“早くしろよ~”という圧を出さなくても、こっちだって人を待たせるのは本意ではないので急いでいます。
でも老人と足が不自由な人がいたりして、そんなにサクサクいかないこともある。

なんか、なんか・・・本山でこんな、流れ作業の一部みたいな儀式やるくらいなら、いっそ小さいお寺でもしっかり心の余裕をもって、
和やかに送ってあげたかったな、とかわたしなんかはおもいました。
だって、そんな形だけの、ベルトコンベアー式の儀式に、ほんとに意味ってあるのかな?
それでちゃんと供養になるの?
ていうか、そういう疑問を家族に抱かせるような、そういうやり方でほんとにいいの??

そりゃ、ビジネス的な考え方も大切です。無しではこの世界ではやっていけないもんね。
でも、お寺って、人の生き死ににかかわることって、比率としてビジネス先行ではなく人の気持ち先行であってほしい。

立派な読経でも急かされてお焼香するくらいなら、わたしが真心こめて読経するほうがよっぽど供養になるとおもう。(小声)
(傲慢な考えかもしれないし、父の手前言えませんでしたが)
自分が送られる立場だったら、真心がこもっている方がいいなとおもうけど。
死んでまで権威とか、様式に固執なんてしなくない?

祖父は信心深かったので、父も祖父の分はということで月命日毎月法要していたし、納骨も本山でとこだわっていました。
でもわたしの代では、父母の意見もききましたが誰もこういった形でやってほしい人はいないので、もっと小さいところでやるとおもいます。

わたしはお寺大好きだし、僧侶の方々に尊敬の気持ちをもっています。
比叡山の記事とか読んでくれてる方はわかってくださるとおもいます。
自分の人生を仏の教えのために捧げようと決めるなんて、すごい決心をされた人たちだなって、めっちゃリスペクトです。

ただ、今回の祖父の納骨の際には、心におこった気持を素直に吐き出すとこんな感じでした。

 

・・・と、大幅に脱線しましたが、話を戻すと、最近よく思い出すって話です。祖父や犬のことを。

 

神社仏閣に行くと、よくデイサービスのお年寄りなんかがみんなで、介護士さんたちに連れられてお参りにきています。
それで、本殿の前とかで集合写真を撮っていたりするんですが、それをみると“ああ、お祖父ちゃんもよくこうやってお出かけに連れて行ってもらっていたな、写真たくさん撮ってもらっていたな”と思い出します。

それで、涙がでてくる。

見知らぬよそのご老人たちをみて、勝手に涙ぐむわたし笑

京都は観光地なので、たくさんお参りにくる人がいます。

杖をついて、歩くのが大変そうなご老人とかが一歩一歩ゆっくり歩いてお参りしようとしている姿って、ほんとに尊いなあっておもいます。涙でちゃう。神仏のほうも、そうまでして自分のとこに来てくれる人間のことは可愛いだろうなっておもいます。

あと、赤ちゃんとかがお母さんに抱っこされてお参りしているのをみると、“いいぞいいぞ、小さいうちからご加護もらっておくんだよ~”と嬉しい気持ちになります。ここまでくると思い出すとかじゃない。笑 勝手な感情移入。

 

犬や祖父との思い出を思い出したり、っていうか具体的な思い出っていうよりもその存在に思いを寄せたときに、涙ぐんじゃう、この涙ってなんなんだろう?どこからくるもの?どういう感情??というのが今気になることです。

上手く言葉で言い表すことができない。

犬が死んで、直後のあの胸が引き絞られるようなのとは全然違います。もっと暖かいきもちだから、悲しいわけじゃないと、自分ではおもうんだけどな~。悲しい涙じゃないけど、嬉しい涙なわけでもないし、不思議ですよね。

自分の感情とか、涙が出るって現象とか、考えていくとけっこう謎。

 

だれか、これを上手く言葉で表現している方がいたら、本でもブログでも、わたしわかるよ!って人でも、教えてください。宜しくお願いします。

 

で、前置きがめっちゃ長くなってしまたんですが、その犬について最近よく思い出すエピソードがあります。

うちの犬はナナという名前でした。両親が施設からひきとった子です。

不思議なことに、うちの母親が昔飼っていた犬にそっくりだったそうです。同じような色、顔、雑種、違っているのは耳の形くらい。

母の姉にナナの写真を見せたところ、やっぱり「びっくりするほど似てるね」と言っていたそうです。

その犬の名前はアキちゃん。母はとっても可愛がっていて、良く懐いていたそうです。

 

しかし、母が進学で母の実家をでたあとに、行方知れずになってしまったそうです。

何があったかわからないけど、わからないうちにその子は死んでしまったとおもう。そのことが母の心のどこかに引っかかっていたらしいです。

 

あるとき母の知人でたまたまうちに遊びに来ていた女性がいました。

その人は、そのときちょっと心が大変な状態で、精神的な問題を抱えていたそうなんですが、そうなればそうなるほど、なんか神がかりみたいな力か働くそうなんです。で、うちに来て犬をみて、一言。

「あ、この子中に他のワンちゃんがいますね」

どういうこと?とみんなおもいますが、母はピンときた。“もしかしてアキちゃん?”

 

母が進学で地元を離れて専門学校に行ったことは、人生の選択だし、しょうがない。

でも、犬はわからないから、“なんで急にいなくなっちゃったんだろう?どこに行ってしまったんだろう?”って思って、探しに行ったんですね。それで、そのままどこかで死んじゃった。さびしいまま、一人で寂しい最後だったみたいです。

で、そのアキちゃんがナナのなかにいますよ。ってその人が言ったそうです。どういう意味かわからないけど、うちの家族の解釈では、ナナはアキちゃんの生まれかわりなんだね、ナナの魂の中にアキちゃんがいるんだ、というかんじでおもっていました。

母はそれをきいて、「あのときはゴメンね、アキちゃん。さびしいおもいさせたんだね。また逢いに来てくれてありがとう。今度はずっと一緒にいようね」とナナを通じてアキちゃんに謝ることができました。

犬だし、ナナがわかったかどうかは謎です。笑

でも母曰く、「いや、あれはわかってた。あの時の目はアキちゃんの目だった」と言っているので、それでいいですよね。

そんな母が、「あのとき、ぜったいナナはしゃべった」と言い張っている出来事があります。

犬がいても、法事とか実家に帰省とかで、17年間のうちだと家族みんなで出かけることもあります。最初ペットホテルに預けたら、普段は庭に広々自由に歩いていたのでびっくりしたのか吠えまくりだったときいて、どちらにももうしわけなくなって、友人の家にエサを預けて様子をみてもらうようにしていました。

 

それで、ちょっと日数がかかる遠出を家族でして、帰った時に、いつもなら真っ先にしっぽをふって出迎えてくれるのに、その日は様子がちがって、明らかに犬が怒っている。拗ねている。

それで、こちらから近づいていくと、怒った顔で「わあんたたちどこにいってたのよう!」って喋った!!!

 

というのが母がいまだに言い張るエピソードです。あれは絶対に喋っていた、ほんとにそう聞こえた、と言います。

それから、どこか旅行など家を長く開けるときには、かならず犬に言い聞かせるようになりました。

ほんとにわかっているかどうかはわかりません。でも、母曰く「目を見て、魂に言い聞かせてる」らしいです。

そのおかげか、その後ナナが怒りのあまりに喋りだすことはありませんでした。笑

 

でも、これって大事なことかもしれないです。動物なので、人間のようには言葉を理解していないかもしれません。

でも、魂に伝える気持ちで語り掛ければ、本当の意味では犬も理解できるのではとおもいます。

だから、老犬介護で大変だったときも、わたしはそう信じて、犬のパニックをなんとか静めようと犬の身体の状況を説明しました。

そして、それは効果があった、とわたしはおもっています。

アキちゃんにも、犬だからって説明しないままいなくなるんじゃなくて、ちゃんと話していたら、もしかしたら探しにいかなかったのかもしれない。母にはそういう思いもあったかもしれないですね。

だから、同じような状況になった時は、犬だけじゃなく猫にも、半信半疑でいいから、わかってくれるとおもって説明をしてあげてください。動物は賢いから、こっちがおもっているよりこっちの気持ちをわかってくれています。

 

今回ナナが17歳という長寿をまっとうして死んで、最後は大変なこともあったけど、最後の最後の一息までもみんなで見守る中で息を引き取ってくれたので、母はようやく可哀そうだったアキちゃんにできなかったことをしてあげられたというかんじです。

ナナは、ナナという存在でうちの大切な家族でした。

それだけじゃなくて、ナナを通して母とアキちゃんを合わせてくれた存在でもあります。

ありがたいですよね。

 

あ~あ、わたしもまたナナに会いたいな。

でもしばらく犬を飼える状況じゃないから、あの世でちょっと待っていてほしい。笑

 

もう会えない存在だけど、死ぬまであっちが生まれ変わらずにまっていてくれたらあの世で逢えるのか、とおもうと、あの世に行くのも結構楽しみです。笑

もちろん、今死ぬ気はないので遠い先のことだけどね!でも、そうまで割り切っているのにやっぱり思い出すと涙が出るのはなんでだろう。

 

最近そんなことをよく考えています。

 

これは蛇足かもしれないですが、犬のことを母に伝えた女性、彼女とわたしは会ったことはありませんが、たぶん本当にそういう力がある人なんだろうなっておもいます。ただ、不思議なことにその力がでるのは彼女が精神的に不安定なときなんですね。

わたしは、話をきいてそういう才能がある、巫女のようなひとだから、しかるべき師(そういう人とどこで会えるのかはわかりませんが)に付いて、本格的に修行したらいいのに、とおもいました。

しかし、彼女の母親が、彼女の神がかり的なところをあまり快くおもっていなくて、そういったことに否定的でした。「また変なことを言って!」みたいな反応ですね。

で、精神科に通って薬などのんで今は落ち着いているようですからそれはそれでいいのかもしれませんが、わたしは逆に彼女は“カンダーリ”だったのではないかと思っています。

 

カンダーリとは沖縄の方言で“神憑り”“神垂れ”の状態をさします。

沖縄のシャーマン、ユタは有名ですが、ユタになるべき人がその道を歩んでいない時に、ユタになる方向へいくようにおこるものです。結構壮絶らしく、現代でいう精神異常、精神疾患のような状態になったり災厄がおこることもあり、本人に意識はなくともユタになることを拒んでいるとして“神の祟り”ともいわれるようです。

で、まわりにユタがいたりそういうことに詳しい人がいると、“あ、これはカンダーリだな”と思って師にめぐり合わせてくれて、無事御嶽で修行の道に入ることでそれは無くなる。

ただ、どういうわけかわかりませんが、それがカンダーリだとわかる前に、精神科の薬などを飲むと、もう一生ユタにはなれないそうです。

 

彼女のルーツは知らないし、沖縄の人間じゃないならユタにならないから関係ないかもしれませんが、きっと素質はあったのにそれを伸ばす方法をしらない、むしろ嫌がられて抑圧されるから、余計に悪い発露の仕方になっていたのではとおもいます。

現代はそういったものからすごく距離が遠いので、昔は自然とその道に行けた人でも、その才能を持っていても発見されないのかもしれないですね。

 

でも、「わたしって色々見えるの~」っていう人も怪しいから、それは自分の嗅覚で判断するしかないですね!

 

わたしの友人には、ひっそりとその才能があるなって人が2人くらいいます。

2人とも、目力のある美人で、なんとなく水とかそんなイメージの女性らしい女性です。

表面はしっとりとおしとやかなんだけど、中にマグマみたいなものを秘めている、みたいな。

 

わたしが何か秘めているタイプじゃなく、なんでも外にだしてしまうタイプなので、そういった人にとっても惹かれます。ただ、その方向の力が強すぎると、それはそれで浮世離れしてしまうような、遠くにいってしまうような気がして心配なんですけどね。

でも、そういった才能にはなにか意味があるとおもうので、もっとそういう人の存在が自然になるような、例えば絵が上手い人、話が上手な人、のような個性や才能の一部として、「そういうのがわかる人」がいるのが普通、みたいな世の中になればいいのにな。

でも、見えない世界のことは、難しいのかもしれないですね。

 

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2件のコメント

  1. 山伏ガールさん はじめまして! 横浜在住で50代の自然山歩きが好きな道楽平和党の党首です☆ 丁寧で詳しい内容のブログを読ませてもらっています(^_^) 今月中旬に比叡山へ千日回峰行の修行体験に行ってきます。 これからも楽しい記事を期待しております

    1. 党首さん
      コメントありがとうございます。比叡山行かれるんですね!
      先日回峰行の修行も体験できるとは知りませんでした。
      素敵な情報ありがとうございます!!修行がんばってきてくださいね。
      のんびりなブログですが、これからも宜しくおねがいします

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