高尾山 秋の山伏峰中修行

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以前、高尾山での夏の山伏修行体験について記事をかきました。

1日目はコチラ。

2日目はコチラ。

修行のおおまかな流れや、体験して感じたことはこの2回で詳しく書いたのですが、秋の修行の感想も書いておきたいなとおもったので、今回レポしようとおもいます。

わたしが参加した2016年は、秋の修行といっても11月の後半でした。

紅葉した木々が綺麗でした。

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このときは女性は夏が琵琶滝だったので、秋は蛇滝のほうで滝修行をしました。

この滝修行が、本当に寒くて寒くて、これぞ修行!!というかんじで辛かったです。笑

 

滝行はただ滝に入ればよいってものではなく、蛇滝は滝そのものが御神体なので、御神体に入るにはちゃんと作法にのっとって掃除をしてから体を清めてからになります。

その作法をしている時間や、待ち時間が凍えて寒かったです。

滝に入っているときは、緊張と寒さで頭が真っ白になって、なにも考えられませんでした。

普段の生活の中で思考が空っぽの空白になることってないですよね。

強制的に作り出されたその間が、終わってからとてもすっきりした気分になりました。

 

しかし、やはり11月に滝行はきつすぎるのか、今確認してみたら今年の秋の峰中修行は平成28年10月8日(土)~9日(日)と10月の頭に行われていたようです。

申し込みの締め切りは9月の中頃なので、来年参加を考えている方はぜひそのころ高尾山薬王院のHPをチェックしてみてください。

 

この年の秋の修行はだいたい40人くらいで、夏は100人近い人だったのと比べると、秋は少なめでした。

女性の山伏の先達さんがいて、声も低くてかっこよかったです。

 

参加人数が多いので、高尾山の僧侶のほかに、出家はしておらず山伏としての修行をして直門先達となられた方が数人いらっしゃって、わたしたちの修行のお世話をしてくださいました。

高尾山の僧侶の方は若くてイケメンな方々が多いので、煩悩の多いわたしはちょっと緊張して気軽には話しかけれなかったのですが笑、先達さんは地元のおじさまが多く、山伏装束についてなどあれこれ尋ねると親切に教えてくださいました。

もちろん、修行中なので無用の私語は慎んでいます。また、僧侶の方も時間を見て質問すれば、丁寧に答えてくださいます。

ただ、そんなあらたまって聞くほどじゃないけど気になるな~、とか修行の作法でわからないことなど、ちょっと確認したいときに気負わず話しかけれたので、直門先達の方々がいらっしゃって良かったなあとおもいました。

 

高尾山は空海さんが開いた真言宗のお寺です。御本尊や開山の歴史についてはコチラで詳しく書きました。

山伏修行は修験道の開祖 役行者の追修行とされています。

 

空海さんが説いたのは、「即身成仏」=“この身このまま仏になる”ということです。

うーん、自分の中にも仏性はあるとはおもいますが、一部分すぎるというか、悟りにはまだまだ遠いので難しいですね。笑

でも、自分の中に神仏の一部というか、ちゃんと良心や感謝や感動を感じるアンテナがあって、それがあるんだからちゃんと生きていけるな、という実感はあります。

 

高尾山の修験では、山そのものを大きな大日如来と考えます。この大日如来というのは、文字に表れているように太陽のような大きなパワーのことです。神仏習合ではよく同じ太陽をモチーフとした天照大神と同一視されます。

宇宙のエネルギーの象徴であり、万物を生み出す力のことですね。

 

お山には沢山の命が凝縮されています。大きな大木から小さな昆虫に至るまで、生命が溢れています。

そして、枯れ葉が肥料となって他の木々を育むように、今ある命だけでなく昔あった命の尊さまで教えてくれます。

 

命は大日如来が色々な形となって現れたもの。だから命あるわたしたちは、誰でも仏性を持っているはず。それが様々な心の違い、環境、煩悩によって見えなくなっているから、お山の中に入って、普段とは違う環境に身をおいて、神仏を感じて、自分にも仏があることを再確認する。

これが高尾山の修験の考え方のようです。お話をきいてわたしはそう理解しました。

 

比叡山で修行し、のちに禅宗を興した道元禅師が

「山川草木悉有仏性」という涅槃経の中の一説に注目しました。「自然界の全てには仏性が有る。」という言葉です。

 

良い言葉ですね~。山を歩いていると、山の綺麗な花や緑、それを照らしている日の光、流れている川のせせらぎもキラキラしてかんじます。それを言葉にしたかんじです。

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修験道というものには、そもそも経典はありません。

仏教と混ざり合うなかで、仏教化しお経などはあげることもありますし、修験道が明治期に一度断絶したことから、これを残すために論文や書籍化されたり、今ではネットなどもあったり、明文化されたところもありますが、元々は口伝で全て伝えられてきました。

修験道の本質は実体をもって体感することにあるわけですから、ある程度書籍で勉強することはできても、結局はお山にはいらないとわからない、そういうものだとおもいます。

ここがわたしが修験道っていいなあ、好きだなあとおもうポイントでもあります。

 

つまり、山には経典はない。山の中の全てのものから学ぶ。良いことも悪いことも、神仏の教えと受けとめる。

 

山伏というものは、自分の身を律して山に入り、自分の身体と五感を使って、理屈じゃなく感じとるということですね!!

 

あれこれ理屈を考えるよりフィーリング重視なかんじが、わたしは性に合っていてしっくりきます。

 

部屋の窓からみた高尾山の夕暮れはとても綺麗でした。

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この日の夕ご飯はこんなかんじです。とても美味しかったです。

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おおきな大天狗さんのお面に見守られながらいただきます。

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食後には、自由参加の懇親会がありました。

参加した人たちでいくつかの円になり、参加した動機や感想など話します。

みんな色んな人生の物語があって、一人ひとりがその主人公として頑張って生きてるんだなって感じて、わたしも頑張ろうとおもえました。普段知り合わない職業や年代の方々とお話するのは面白かったです。

 

また、僧侶の方がなぜこの仏の道に進まれたのか、僧侶の日常生活や人生の選択の話など、赤裸々に語ってくださって、こちらも大変興味深かったです。普通お寺にいって、僧侶の人に「なんで僧侶になろうとおもったのですか、何歳くらいに決めたんですか」なんて、たとえ顔見知りでもぶしつけすぎて訊けないですよね。笑

僧侶も、あたりまえだけど同じ人間なんだなあと思うところもあって、だからこそわたしでもこうなれるかもしれない、という希望になって、お話を聞けて良かったです。

 

消灯まえに、少し外の空気を吸いにいきました。

 

他の参加者の方から、「大本坊の奥にある弁天洞がパワースポットなんだよ」と教えていただき、一緒に参加していた友人と行きました。

 

階段を上がった先に洞窟があり、奥に弁財天さんが祀られています。

夜の雰囲気もあってか、少し怖かったです。やっぱり昼間いくほうが良いとおもいます。

 

その後は夜景を眺めました。

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光が遠くて、お山のすそ野の広さがわかりました。

また、あの光のところに人がいて生活があるんだなあとおもうと、町の明かりも温かくおもえます。

 

紅葉で混んでいる高尾山も、この時間は人気がなく同じ場所なのが不思議に感じました。

 

翌日朝の勤行をして、階段を上がって神社の前で法楽をやるときに、振り返ると紅葉した木々の間から朝陽が差し込んでいました。

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とても綺麗で、心に焼き付く特別な朝になりました。

 

 

秋の高尾山は、もちろん登山にきても楽しいですが、山伏や修験道に興味を持っている方はぜひ山伏修行にも参加してみてください。

 

 

 

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