今年の夏は面白い映画が相次いで公開、話題になっていて、そろそろ見ておかないとうっかり周りの人にネタバレされそうだったので、このビックウェーブに乗らねば!!という勢いで、わたしも週末に立て続けに2本映画を観てきました。
もちろん話題の邦画、「君の名は。」と「シン・ゴジラ」です。
ネタバレにならないように結論から言うと、どちらもとても面白かったです!!映画館で観る価値のある二作品でした。
製作スタッフの並々ならぬ情熱とこだわりが感じられて、お布施ではないですが、ちゃんとお金を払ってあげないと!っとなる作品です。
これだけ話題になるには、それだけの理由があるなあというかんじです。
流行りものはその当世を映す鏡ですから、前情報だけで「今時特撮!?どうせ怪獣映画でしょ」や「若者向けの恋愛なんちゃらでしょ」という先入観を持たずに、批判もまずは観てから、この波にのってから、ぜひやってください!とまだ観てない人には言いたいです。笑
色んな人がいろんなところでゴジラ論評をやっています。新聞にまでコラムが載っていて、ここまで各界の人が話したくなるほど、「シン・ゴジラ」には色んな側面から語りたくなる魅力、話題性と謎、解説したくなる言葉やモチーフが詰め込まれているということだとおもいます。
ネタバレにならない程度に、わたしは「シン・ゴジラ」の祟り神性について少し書いてみたいとおもいます。
これ以前の平成ゴジラ映画も何作品かは観ていましたが、わたしの中でゴジラは単なる怪獣映画のくくりでした。
ゴジラといわれて想起するのも、目がくりっとしていていわゆる“イケメンゴジラ”といわれる、恐竜近い体になんか人っぽい愛嬌のあるゴジラです。
昭和のファーストを観ていなかったので、ゴジラが怖いと思ったこともないし、ゴジラが放射能汚染から生まれた怪物だということや、口から出すのはビームではなく放射熱線ということも知らなかったのです。なのでまさしく、今回の「シン・ゴジラ」はわたしにとって戦後の人々が最初にファースト「ゴジラ」を観た時と同じような恐怖と衝撃をもたらすものでした。
戦後、日本全土がまだ焼野原だった記憶を持っているときに、放射能の恐怖と街を焼き尽くすゴジラの恐怖は、生々しい実感をもって人々を震え上がらせました。そしてシン・ゴジラも、海からやってきて理屈抜きに町を破壊し、押し流される車の数々、逃げ惑う人々、ゴジラが一旦海に戻ってホッとしたのも束の間、その通り道から放射線濃度が検出されたと知ってゾッとする・・・これも3.11の記憶がまだ新しいわたしたちにとって、東日本大震災とその後の福島原発の焼き直しを見せられているようでした。
古来、日本では荒ぶる自然や災害も神の一部として、祀り、鎮めてきました。神社でも、神さまの荒魂と和魂を分けて祀っているところもあります。伊勢神宮の荒祭宮などがそうですね。そうして、恵みをくれる自然も神だし、災害ももたらすのも神として、人の力が及ばない大きな力を信じていました。
たぶん、この時点では神は「祟る」ものではなく、「荒ぶる」神であり、神の力はそれはそういうものだ、自然の持つ力の一部であって、何か害をなそうという意思があるのではなく、だからこそどうにもできないし祈るしかない、という性質のものだったとおもいます。
では、いつから神は「祟る」ようになったのか。「祟り」とは何なのか。
「祟り神」というと、たぶん有名なのはジブリの『もののけ姫』のあの「タタリ神」ですね。蝦夷の少年アシタカが、村を救うために矢を放って殺し、その腕に消えない呪いを受けます。アシタカは殺したくて殺しているわけでもないのに呪うなんて理不尽だなあともおもいますが、どんな理由にせよ殺してしまった、その罪悪感や加害者意識というものがあって、初めて「祟り」は成立するのではないかと思います。呪いは、殺された神の怒りの受け皿なのです。神を殺すには相応の対価を払わなければならないということです。
日本で祟り神信仰、いわゆる怨霊信仰や御霊信仰が高まったのは奈良時代末期から平安時代にかけてです。
この時代、権力争いなどで血を血で洗う政争がおき、長岡京遷都の理由にもなったと言われるほどの早良親王の祟りがあったり、今では天神様として学問の神さまにまで祀られましたが、大宰府に流された菅原道真や讃岐に流配になった崇徳上皇などの祟りが京の都を震え上がらせていました。
その怒りを鎮めるために、時の権力者は神社を建て、相手を神さまとして祀って祟り神の負のパワーをなんとかしようとします。または寺を建てて供養したり。この辺は井沢元彦氏の著書などに詳しく書いてあります。
相手の恨みのパワーは災厄なので、神さまになってもらって、鎮魂して、その力を逆方向にかえて守ってもらおうという発想ですね。面白いことに、この怨霊信仰というのは日本独自のものらしいです。この“相手に酷い仕打ちをしたら、祟られるかもしれない”という発想、そして神さまにして崇め奉ったら許してもらえる、という転換。(これがあるから、日本には“なあなあ”や“ほどほど”にしておこうという考えが生まれたのかもとおもいますが)
この考えというのは、祟られる側、つまり政権をとって相手を滅ぼした側、勝者側が生み出したものです。
たとえば中国大陸なんかは、覇権が移るのは天命という考え方があるので、自分たちを正義として、滅ぼした側に恨まれる筋合いなんかない!とばかりに苛烈ですよね。しかし、日本の場合、どんなに表向きは正当化しても、怨霊の扱いということが国家レベルの問題だったことをみると、怒りは鎮めないかぎり消えない、と考えられていたんだとおもいます。
つまり、祟り神になるのは非業の死を遂げていたり、強い怒りを持ったまま憤死したり、強烈な執着のある魂、人間が成るものである。そして、怨霊になるほど怒るということは、祟る側に怒るだけの正当な理由があり、祟られる側がそれを知っているということが必要なのです。もし、相手が本当に悪人で自分に非がなかったと信じるなら、自業自得だと胸をはっていればいいのであって、恨まれることを恐れる必要なんてありません。
自分たちが祟られる存在だと思うこと、その罪悪感や加害者意識こそが、祟り神を生む構造になっているということです。
では、なぜゴジラは祟り神と言えるのか。
まず、ヒントとして今回の映画の中でもはっきりと、「ゴジラ」という命名はゴジラを研究していた牧悟郎教授が故郷の大戸島の伝説の海神「呉爾羅」からとったと語られています。これにより、英語名も神を意味するGODをいれて「Godzilla」と表記されています。
この海神からの由来という設定は1954年の最初の作品から1975年の「メカゴジラの逆襲」まで共通です。
2つめにゴジラの出現の理由です。太古から生き延びた海洋生物の生息地に、各国が大量の放射性廃棄物を捨て、ゴジラはそれを食べて一世代で進化している生物である。つまり、ゴジラをあそこまでの怪物にしたのには、人間の廃棄した核実験のゴミが原因である。ということです。
3つ目に「シン・ゴジラ」では東京湾内羽田沖で牧教授の乗っていたプレジャーボートが発見されるシーンから始まりますが、その後ゴジラが東京に向かってくることから、牧教授が何らかの形でゴジラを目覚めさせて行動させたのでは、という点です。
牧教授自身は靴をそろえて自殺のような形で失踪しているので、どうなったか映画では触れられていませんが、多くの考察にあるように彼はゴジラに人間のDNAを与えた、とみていいとおもいます。その方法がどのようなものかは類推の域を超えませんが、彼自身がゴジラに成った、取り込まれたとも考えられるとおもいます。なぜかというと、そう考えることでゴジラがなぜ東京を目指すのか、東京を破壊するのかが説明できるとおもうからです。
「祟り神」になるには、強烈な怒りと執着、恨みを持っていることが必要です。ゴジラそのものには特に“日本”に対する執着は本来なら無いはずです。しかし牧教授は、本編の中で奥様が放射能障害により亡くなったというエピソードが語られています。
これは岡田斗司夫氏が「シン・ゴジラ評」で語られていたことですが、彼の動画ゼミナールでの論を要約すると「今の時代に、原爆の後遺症でなくなるというのは少し世代がおかしい。また原爆の後遺症ならアメリカを恨む人はいても、日本政府を恨む人はいないとおもう。つまり、今回の放射能障害というのは3.11の福島原発の事故のことであり、その時の日本政府とその対応を恨むなら辻褄が合う。牧教授の妻は3.11で何らかの放射能障害になり、教授はそれを恨んでゴジラを目覚めさせ、日本政府の中枢である東京を破壊しようとした」というものになるとおもいます。
わたしはこの意見に賛成で、ゴジラという神の力を持った怪物に牧教授という人間の強烈な怒りが加わって、意思をもって日本を祟る祟り神になったと思うのです。
そして、祟り神には、祟られる側の罪の意識が構造として必要になりますが、一体祟られているのは誰でしょうか?
映画の中で破壊される首都、日本政府、逃げ惑う住民たち・・・それはわたしたちの暮らしであり、映画を観ているわたしたち自身です。
ほんとうに安全かどうかも考えないまま、リスクには目をつぶり誰かのいう「安全」を盲信して原子力を使ってきたわたしたちであり、未だそれが正しいことかもわからないまま生活のために利用しつづけるわたしたちであり、住まいや暮らしを追われて苦しむ人の事もすぐに忘れてしまう、3.11後のわたしたちです。
ゴジラを観ていてふつふつと湧き上がるこうした罪の意識によって、ゴジラは完全なる祟り神になったといえます。
さて、ここからはネタバレになってしまうので、まだ観てないという方はこの辺までで!
その後、映画のクライマックスではゴジラに血液凝固剤と活動抑制剤を飲ませて凍結させる「ヤシオリ作戦」が採られます。
最初観たときは「なんでヤシオリ作戦って名前にしたんだろ?」とおもって、それについては本編では特に解説がありませんが、こういうところが庵野監督のニクイところですよね。ちゃんと意味はあるけど、わかるやつにだけわかればいい、みたいな。
日本映画は説明過剰なところがあるとおもっているので、これくらい勝手に調べろ!とされているほうが語る余地があって面白いですよね。だからこそ色んな所で「シン・ゴジラ」評をする人がいて盛り上がっているのだとおもいますが。
さて、この「ヤシオリ作戦」のヤシオリとは、『古事記』や『日本書紀』にでてくる最初のお酒“八塩折之酒”に由来します。スサノオノミコトが、八岐大蛇という荒ぶる神を倒すときに、この酒を飲ませて眠らせて首を切るというエピソードがあり、ゴジラに薬を飲ませて動けなくするという作戦にかけているのですね。
ちなみに八塩折之酒はそれに因んだ酒が島根の酒造で作られており、購入できるようです。
ここでも、「神殺し」というオマージュがされています。ゴジラは正確には殺されたわけではなく、凍結され活動中止の状態というこれまた福島原発と同じような状況なわけですが、それでもゴジラを鎮めるためには大きな対価が支払われました。
まずは破壊された東京、ゴジラの通った道に残る放射能、自衛隊の被害、いつもわたし達が利用している在来線が爆弾を積んでゴジラに向かっていく姿は健気でしたね。それから、ゴジラがまた活動を再開した際にはいつでも日本に核攻撃を仕掛けるという国連決議もあります。しかし、こうしたわかりやすい対価、ゴジラの「祟り」による「呪い」はそれだけではありません。
これは岡田斗司夫氏の指摘ですが、「アシタカが腕に負った呪い。それと同様のものを矢口蘭堂も負ったはずだ。それは矢口やカヨコ・パタースンがわざわざ二世の政治家であるという設定にされたところで暗示されている。彼ら二世というのは、家を継ぐ、繋いでいくことが大きな使命の存在である。しかし矢口は再三忠告されながらも、防御服を着てはいるがゴジラが目視でき、その放射能の被害にもさらされる前線で指揮を執っていた。つまり、はっきりとこういうことは声を大にしては言えないからわかりやすい描写はないが、彼らがなんらかの放射能障害を負った可能性が高い」
放射能は目に見えないものなのでその影響というのはわかりづらく、また時間がたってからわかることもあり、極端に恐怖されたり差別につながることもあり、なかなかおおっぴらに語られません。もちろん風評被害などはあってはならないことですが、それが本当に風評被害なのか懸念すべきことなのかというのは、しっかり調査されおおっぴらに語られて初めて区別がつくものだと思います。3.11以降、わたしたちが考えなければならない問題、しかし時間がたつにつれ喫緊の課題であるという意識が薄れている問題について、「シン・ゴジラ」はもう一度問いただしてくれています。
まあ、こういった難しい問題は抜きにしても、「シン・ゴジラ」はエンターテイメントとしてもポリティカル・フィクションとしても楽しめる作品です!
前半の3.11を想起させるような映像は、ショッキングでしたが、ようやくこれらをフィクションとして表現できるようになってきたんだなともおもいました。そして、後半の日本人の結束力で事態を解決するシーンは、原発事故が収束しているとは言えない中、まさにこれが今日本人が見たがっているものなんだなあとおもいました。わたしたちの“こうなりたい、こうでありたい”という希望なんですね。
それと同時期に「君の名は。」が大ヒットしているのも、この点が共通しているとおもいます。こちらも、わたしたちの“こうできたなら”という願い、希望を叶えた作品だからです。
これらが2016年に同時に作られたのは、わたし達があの東日本大震災という大きな出来事を、ようやく物語の形で語れるようになったということなんだとおもいます。
ここから「君の名は。」のネタバレが入ります!
しかし、わたしにとって「君の名は。」はまだなにか引っかかる部分がありました。作品自体は映像も綺麗だし、曲も魅力的だし、テンポもはやくて大好きな作品になりました。
あの話で、最後ハッピーエンドじゃなかったら耐えられないので、あの結末で良かったともおもっています。
なのに、なにがひっかかるのか。
それは、わたしたちは誰でも、もしできることなら時を遡って大切な人を救いたいとおもうし、どんなことをしてでも助けたいとおもう。でも、現実にはそれは不可能な夢であり、それでもわたしたちはこの世界で生きていなかなければならないのだ、ということです。
そうして生き残っていくわたしたちに、Ifの可能性は救いや希望になるのでしょうか?
もしかしたら、単なるディザスタームービーとしてなら、気にならない部分かもしれないし、3.11を思い出さなければ引っかからないのかもしれません。全然遠い国の人が見たら、普通にファンタジーの要素として楽しめるのかも。
しかし、3.11後災害というのはとても身近なものになってしまったわたしたちにとって、「君の名は。」の災害は“日常が突然想定外の大きな力によって壊される”こと、そして“遠く離れた場所にいる大切な人と突然連絡が取れなくなる恐怖”をリアルに感じさせるものです。
そこがリアルなぶんだけ、現実の世界には救いがないような気になってしまったのでした。
「シン・ゴジラ」のほうは、「呪い」や「祟り」は防げなかったけれど、人の力で鎮めることはできるという、犠牲は必要だけれど前進もできるという内容だったので、まだ納得がしやすかったです。
しかし、「君の名は。」の映画のストーリー自体はIfの可能性によって救われたので、現実が辛い分映画はこれはこれで、わたしたちの“観たいもの”になっているのかもしれません。主人公たちに思い入れたぶん、助かったときには心底良かったなあと思いました。また、いつでもわたし達は誰かと出会う前であり、その可能性のある自分であるというメッセージも好きです。
そんなわけで、ある意味どちらも3.11後のわたしたち日本人が“観たいもの”を見せてくれている映画です。
なので、これらが海外に配給されても、これほどの熱狂を生むかは正直わからないなあとも思います。それは今のわたしたちの中に、どうしたって3.11以前以後という大きな断絶を共有しているという状況があるからです。だからこそ、今のわたしたちが共感しやすく、わたしたちのために作られた映画だともいえるので、ぜひ劇場で生の熱狂とともに観てみてください。
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