飲み会疲れと「この世界の片隅に」とフォークル

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今年ももうあと1週間で終わりますね。

あっという間の1年で、ほんとうに驚きます。

 

忘年会や新年会の予定が入って、ようやく年末感が出てきました。

年末年始の飲み会って、地元で普段合わない友人などとも久しぶりに逢えて楽しいのですが、疲れることも多いです。

 

先日、すごく久しぶりの集まりに参加したのですが、うーん、あまり楽しめませんでした。

というか、しばらく距離をとっていたときに、“ああ、この集まりに参加するのはもういいかな。”とおもったにもかかわらず、なんで参加しようとおもったのかな~わたし。ってかんじです。

 

全部のおじさんがそうだとはおもいませんが、中高年のおじさんと一緒の飲み会で、すごく疲れることがたま~にあります。

というのは、ある年代になった人って、“自分の生きてきた人生こそが正解だ”とおもいたい気持ちが強くて、それにそぐわないことに対する攻撃が強い気がするから。

 

人生って、選択の連続です。日常の、「今日何を食べよう」「どの映画を観よう」ってところから、「どの大学に入ろう」「どの会社に入ろう」「転職しようか、このまま残ろうか」「この人と結婚するかしないか」まで、選択が次から次へとやってきます。

そして、わたしたちはみんな、“自分が選択した結果の人生”しか経験できません。

 

その点では、長生きしたおばあさんだって、わたしより年上のおじさまたちだって、わたしだって、中高生の若者だって、みんな一緒です。年齢による経験の違いはありますが、選択した一つの人生しか生きていないことには変わりないです。

だからこそ、映画や本などで全然違う人間の人生を追体験したり垣間見たりするのが楽しいわけです。

なのに、「そんなんじゃダメだよ」「もうそろそろこうしなきゃ」とか、人生の先輩として良かれとおもってアドバイスしてくれるのはわかっているのですが、“あなたはわたしじゃないのに、なんでこうしたほうが良いなんてわかるの?あなたの選択しなかった人生がどうなるかはあなただってわからないのに、なぜ自分の選択や価値観がベストだと言い切れるの?”と思ってしまいます。

「自分も若いときそうだったけど、~で失敗したよ。だから同じような失敗をしてほしくない」という、親心もわかります。

でも、わたしが同じことをしたとして、違う人間違う状況なんだから失敗するかどうかはわからないし、失敗したとしてもそれが必要なことだってあります。

わたしには失敗する自由がある!それを先回りして誰かが止める権利はない!笑

と主張したくなります。まだまだわたしが青いからかな。笑

 

ただ、ほんとうに疲れるのは、そういう人たちも“良かれ”とおもってくれていて、悪意がないところなんですよね。

たぶん有益なアドバイスをしてあげてるとおもっているとおもいます。

アドバイス、ならいいんですが、実際はもっと断定的な口調で、自分の思っていることや考えていることが、“意見”ではなく“真実”や“真理”だとおもっている節がある。“そうじゃダメなんだよ!こうなんだよ!人生っていうのはね~うんぬん”

もちろん、その人の人生を通して、その人にとっての“真実”“真理”“正解”“幸福”なわけです。それはそれで、全然良い!!

ただ、それをなんの疑問ももたずに他人にとっても“正解”だとおもって押し付けてこられることに、うんざりしてしまうんです。

悪気がないのがわかっているので、無下にはできないし、同年代なら反論することもありますが、だいたい言い返されると年配の人って「まだ若いから~、わかってないから~」といって取り合ってくれない。

 

いや、若いとかじゃなくて、違う人間だからだから!幸せの重きをおくところが違うってだけだから!!

 

もやもやするなあ~笑

そういうおじさまたちって、「そうじゃないんですよ、わたしは違うんですよ」という言葉を、自分たちの人生や自分たちの価値観を否定されたように感じるらしく、頑なに受け入れてくれない。おじさんたちの人生を否定しているのではなく、あなたはそうい選択をして良かったのはわかるけど、ただわたしは同じ選択をしないんですよって話なんだけど、これがなかなか伝わらない。わたしに同意されなくたって、自分が自分の人生を肯定してればそれでいいのにな~とおもいます。

 

そのへん、まだ中高年のおばさんのほうが視野が広くて、同じ年代のおじさんがまだ“学歴”“職歴”“社会的ステータス”を気にしている年代でも、おばさまの方は“健康”“介護”と“老後の趣味”“旅行”の話が多くて、マウンティングや優劣をつけることなんて遠野昔にヤメマシタって方が多いので、話していて気が楽で楽しいです。

 

この間テレビでタモリさんが「友人なんて少ないほうが良い」と言ったことが話題になっていますが、確かにそうかも。人生の前半は色んな価値観を知るのに、沢山友人がいることが“良いこと”だとおもっていたし、メリットも確かにありましたが、ある程度人生が進んだら、自分の心が平和に穏やかに過ごせるように人間関係を整理したりデトックスするのも必要かもしれない、と考えるようになった年末でした。

そのことと、自分に都合よいことだけ言ってくれる人だけにするんじゃなくて、耳が痛い意見をくれる人も大切にすることを、上手くバランスをとっていくのが難しいですね。

素直な友人は、“いつか参考になるかもしれない”として意見をきくと言っていて、それができるようになりたいとおもっています。

 

みんなどうしているのかな。それこそ経験談がききたいです。

 

 

先日映画「この世界の片隅に」を観てきました。地元では公開館数が少ないので、車で1時間弱の映画館まで足を延ばしました。

そして、その価値のある映画でした。 以下、ネタバレ無しでおすすめしてますので、また観てない方も安心して感想読んでください。

もういろんなところで散々「すごい映画だよ!!」というのは言われているのですが、本当に素晴らしかったのでわたしも言いたい。笑

何が素晴らしいかというと、一言では言えない魅力があります。ストーリー、アニメーション、音響、時代考証、声の演技、諸々。

無理矢理まとめて言うなら、この“一言では言えない”ってところがすごいんだ!!ということです。簡単なアオリをつけられない、言葉では表現できない、しかも感動の種類も人によって様々で、映画でしかできない感動だし、アニメでしかできない表現を魅せてくれています。

で、それはどういうことかとわかってもらうには、結局、観てもらうしか、自分の目で経験してもらうしかないんです。

山伏式ですね!笑

それが、映画として素晴らしいとおもうんですよ!つまり、言葉で説明できるようなものなら、究極映画を観なくったってよくなってしまう。観ないとわからないもの、まさしく映画を観ることを強烈な“映画体験”にさせてもらえる作品は、本当の意味で映画の価値を教えてくれる作品は、そうそう作れるものじゃないとおもう。それが凄いんです。

 

そんな作品を創ってくれた、ということに、ものを創る人間としてすごく感動しました。

作り手の、真摯な気持ちが見る側に伝わってきます。

構想から6年をかけて、資金もクラウドファンディングで一般の有志の方々から集めて、広島の街の細かいところまで当時の人の話などきいて作り上げた作品です。そういうことがこの時代に可能だということ、またやろうと思う人がいて、それに賛同して沢山の人がお金を寄付した、ということにも、もうありがたや~という気持ちになります。

 

広島に生まれた絵を描くことが大好きな女の子が、軍港の街・呉に嫁いで、そこで生きていく話です。

その中には、途中から戦争の影がありますが、だからといって“戦争映画”とは一言では言い切れない。

戦争映画というと、惨く悲しくて、観た後しばらくズーンと暗くなってしまうし、心構えが必要になりますよね。確かに作中悲しいシーンもありますが、それだけではないので、身構えている方には大丈夫ですよと言いたいです。

観終わったあとに、ぜったい暗い気持のままにはならないです。それは約束できます!!

わたしは、生きているっていいなあ、人間って、この世界って、イヤなとこもあるけどやっぱりいいなあと心底思えて涙が出ました。

そういう読後感でいうと、E・フランクルの「夜と霧」を読んだ後にも似ています。

これはナチスの強制収容所に入れられていたユダヤ人の精神科医の体験記です。

これも↑この説明文をみて想像するような陰鬱な本じゃないんです。ああ~説明が難しいんですが、とにかくこの作者の人がすべてのことをフラットに観察してみているんで、恨みつらみぎっしりみたいなのでは無いんです。それでも、書かれている出来事、そこで起こったことは悲惨なことばかりなのですが、それでもその極限状態で楽しみを見出したり、冗談を言ったり、人としての尊厳を保てるなんて、人間って凄いんじゃないか、って思えるような、読後爽やかな希望が残るような本です。ぜひ読んでみてください。

 

「この世界の片隅に」を観て感じた悲しみも希望も、「この世界」とはわたしのいる「この世界」であり、わたしが今いるここがそれこそ「この世界の片隅」だとおもえたから湧いてくる感情だとおもいます。だから、涙がでてくる。

戦時中でも、そうじゃなくても、災害などがあって被災しても、自分ではどうしようもない大きな力で理不尽なことを強いられても、辛いことや悲しいことがあっても、なにがあっても、生きて笑って食べて寝て生活していくということ。

どんな状況でも、自分たちの“日常”を続ける意思、とういのはとても尊く、わたしたちをわたしたちたらしめている、根幹だとおもいます。

 

同じことを、バックパッカーでベトナムをまわったときに、ホーチミンにある「戦争証跡博物館 WAR REMNANTS MUSEUM」での写真展を観たときに感じました。

アメリカの爆撃下でも、塹壕で道をつくって学校に行く子供たちを映した写真があったんです。

それを見て、そういう状況でも学校に通うという“日常”を文字どおり“命がけで”続けている人々の姿をみて、人間とはこんなに強くなれるのかとおもいました。この博物館では、ほかにも沢山悲惨な写真もあって、目を背けたくなるような展示もあるのですが、一番わたしの心を打ったのは、“日常”を守るという戦いをしている、市井の人々の尊さ、意志の強さでした。

またこの旅のことも、時間がとれたらまとめて記事にしたいなとおもっています。

 

芸能活動を休止していたのんちゃんの復帰第一作目でもあるし、さらに彼女のキュートで自然な演技がすずさんを「この世界」に存在させていて、抜擢した片渕監督さすがすぎます。

そして、アニメの絵も凄いですが、音も凄いので、ぜひ劇場でみてほしいです。

爆撃のシーンは、音も凄いし描写も怖くて、ほんとに恐怖をリアルにかんじて、怖すぎて泣きました。

 

でも、「この世界の片隅に」は今日でも、本当に爆撃が空から降ってきて、日常を奪われている人がいるんですよね。

わたしが今いる日本では遠いことのように感じてしまっても、この世界と地続きでその世界はある。

そして、かつてそういう世界だった場所でも、たった何十年かでそんなことが想像しづらくなるくらいに平和にもなれる。

わたしたちが生きている「この世界」について、考えると悲嘆と希望が入り混じります。

ずっと心の中で大切にしていく一本になりました。

漫画の方もぜひ読んでみたいとおもいます。

 

あ!あとおもったのは、OPにコトリンゴさんが歌う「悲しくてやりきれない」がまたいい味だしてるんですが、最近祖父と犬が亡くなってから、ザ・フォーク・クルセダーズの音楽を聴いて、泣いて心が落ち着いたんですね。で、タイムリーだな、と思っていて。

「悲しくてやりきれない」もいいですが、最近ブログの記事のタイトルにした「悲しみは言葉にならない」や「感謝」も名曲です。

メロディーも言葉も平易でシンプルなコード進行だからか、すっと心に入ってくるんですよね。80年代の日本のフォークって湿っぽくて暗いのも多いのでちょっと苦手なんですが、フォークルの明るいメロディは好きです。

でも、メロディに対して歌詞はとても悲しい。っていうのに、わたし弱いんです。笑

これも音楽だからこそできる表現っていうか、明るい音に乗せて悲しみを歌うから、悲しいのにそれだけじゃない、感情のシャワーが溢れます。ミュージカルの「レ・ミゼラブル」の“On my own”やあの大ヒットした「アナと雪の女王」の“Let it go”もこの名曲の法則に乗ってると勝手におもってる。

で、それがこの映画のテーマにもぴったり合ってますよね。

 

ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦さんは、2009年に「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。」という遺書を残して亡くなっています。

でも、もうちょっと待ってほしかった。今の音楽チャートって一部に特化してしまって今の世の中を映してないから、若い人ほど流行りに関係なく色んなメディアで好きな曲を自由に聴いていて、懐メロやフォークだって好きな若者いるとおもう。

わたしだって、最近ずっとフォークルにはまっています。

だから、本当に良いものは、時代なんて関係なく必ず必要とする人がいて、好きだといってくれる人がいて、評価してくれる人も現れるはず。「この世界」はそんなに捨てたもんじゃないよ、なにかものを生み出すのに、絶望するのはまだ早いよ、とそう思わせてくれる「この世界の片隅に」でした。

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