ブックカフェと修験道と「海うそ」


最近仕事が忙しいです。

そうなると、途端に物語が読みたくなります。

物語の世界に入っていると、仕事とか現実の考えなきゃいけない事柄から、ちょっと思考を離すことができます。

 

そんなわけで最近読書熱が再熱しています。

先日は一人で読書が出来るカフェ、京都の二条通にある「月と六ペンス」へ行ってきました。

読みたい本を持参したのですが、目の前に沢山本があると、つい面白そうなタイトルを手に取ってしまいます。

ここはカフェですが、完全に一人席で壁に向かって椅子が配置されているので、みんな黙々と本を読んだり手紙を書いたりして過ごしています。

まず初めにマイケル・ドリスの「森の少年」を読みました。

インディアンの少年 モスが大人になるために“森の時間”を経験するために森に入っていき・・・。

というお話です。冒頭の、一族の物語が首飾りの模様や順番になっている、それをほどいてしまったモスはこれから自分の物語を紡いでいかなくてはいけない、というシーンが印象的でした。

洋の東西を問わず、“森”や“山”という場所は、どんなにその近くで暮らしていようとも、里とは一線を画した、

なにか不思議な力がうずまく神聖な場所と考えられてきたんですね。

 

 

それから、すごく不思議な読後感だった梨木果歩の「海うそ」

これ、なんといっていいのか、フィクションとノンフィクションの間のような、不思議なお話です。

 

昭和の初めに主人公である人文地理学の研究者が南九州のある島に行きます。

そこで“イエ”の形式の研究をするうちに、その島にかつてあった修験道の跡、修験の霊山へと足を運びます。

その時点で、すでに修験道は明治期の廃仏毀釈によって破壊された後です。

読んでいて、もっと植物の名前に詳しかったら、ちゃんと森の様子が伝わってくるんだろうなと思いました。

知っている植物の描写などあると、ああ、こんな形の葉っぱが目の前に広がっているんだなとイメージできて、山を歩く主人公の見ている風景を一緒に観ることができます。

 

この、淡々とした描写ながら、じぶんがその時代の九州のむせ返るような暑さのなか山歩きをしている臨場感のある文章が、まず読んでいて面白い。

そして、主人公の青年が破壊された信仰の跡を見て感じた、切ないような悲しいような気持を、自分も一緒にその場にいるかのように体感します。

「自分の存在の根幹をなすところのものが、暴力的な力で根こそぎ奪われていくような思いなのだということを察した。〈中略〉暴虐の限りが尽くされるのを、寺院側は何の抵抗もせず、大人しく見ていたのだろうか。ひとの心の奥の、精神的なものに対するこれほどの破壊行動はあるまい。武器を持ってでも抵抗するべきだった、というのではないが、その辺りの葛藤がどうなっていたのか知りたかった。興味、というような悠長なものではない、むしろ、底知れぬ地の穴にともに引きずり込まれるような喪失感への共鳴が、自分の身のうちのどこからか響いて止まず、なんとも息が詰まるような切羽詰まった不安に後押しされ、取り縋るように、私はそれを知りたいと思うのだった。切実に、思うのだった。」

その後の調査で、島には“モノミミ”というシャーマンのような、修験者のような民間宗教の信仰者がいたことがわかります。明治政府は神仏分離令を出しましたが、なんどもこのブログで書いているように、神道と仏教を分けるということ以上に、仏教よりも排除したかった修験道を根絶やしにする意図がここにはありました。

この本の中では、それは“モノミミ”という名前で語られています。

またこれは“物語り”の形式をとっていますが、日本全国で同じようなことがあった、ということは事実です。

この本でも書かれているように、“日本政府は神道を国体として確固たるものにするために、「素性正しい」公認の神こそ信仰するべきで、八百万の“神々”はいらない”、という見せしめ、山野に分け入って中央権力にまつろわない、山伏という中央からすると得体のしれない不気味な勢力を排除したかったというわけですね。

 

そういったことをかんじながらの山歩きの記録がずっとつづいて、最終章はいきなり時間軸が現代へ飛びます。

主人公は80歳になり、自分の子どもが仕事でこの島の開発に携わっているときいて、胸がざわつきながら島を再訪するのです。

それまでの淡々とした記録の文章から、一気に緊迫したシーンに変わります。読んでいて、主人公の感じる不安とおなじものが、こちらの胸にも広がります。

変わっていてほしくない、でも変わってしまっているだろう。

島の住人にとって、発展や開発はいいことで、部外者がどうこう言えるものじゃない。それはわかっている。

でも、昔あった価値あるものや先人たちの信仰のよりどころが、わけもわからないままに無残に踏みにじられ、開発の犠牲になって価値に見向きもされない様子をみると、胸が痛む。しかも、それが自分の子どもの仕事であって、自分もそのことに無関係ではない…。

こういうことは、多かれ少なかれ立場の違いはあれど、この発展と開発を続ける世界にいる以上、わたしたちの誰もが味わったことのある苦い思いではないでしょうか。

わたしも、東南アジアを旅したときに、ラオスやタイの田舎などでおんなじことをおもいました。

こののどかな風景、昔ながらの人々の暮らしがずっと残っていますように。でも、文明の利器の恩恵を受けている自分はもうその暮らしには戻れないし、そこで暮らす人々が利便性を求めて開発した場合、それによっておこる変化にがっかりするのは、なんの責任もない部外者だからおもうことであって、口を出す権利なんてないこと。

でも、消えていくだろう風景に寂しいとかんじること。便利なことは良いこと、でも本当にそうだろうか?という問いがうまれる。

 

どんどん便利になっていくこの世の中で、わたしたちは永遠に発展を求めていくのか?それが幸福に繋がるのか?

どこかで歯止めをかけたり、満足を覚えるべきではないのか?それともそっちの方が滅びることにつながるのか?

人類は発展を求める生き物として、さらに発展していく中で環境やもろもろと共存するように違う方向に発展するべきなのか?

 

読んでいて、わたし自身もずっと考えていた問いがぐるぐるまわります。

そんな、胸がキューっと絞られるような怒涛の最終章のさいごに、わたしはうまく説明できませんが、“これでいいんだ”という救いがあります。

どんなに人間が破壊をつくしても、揺るがない、自然の強さもまたほんとうです。

そして、人間も自然の一部なら、人間の行うことも含めてすべては「色即是空 空即是色」

全ては幻であり、でもその幻はきらめいて、過去も現在も未来もなくなる…

 

わたしでは上手く言語化できないし、梨木さんの文章でもここの部分は難しいのですが、最後に謎の爽快感があります。言葉として頭でわからなくても、突き抜けた肯定感や、“いいんだ”という感覚はわかります。

というか、文章が難解で書いてある意味はよくわからないのに、本質の部分は伝わってくる、っていう梨木さんの伝える能力ってすごいです。

あまりこんな読書体験をしたことがないので、すごく面白い一冊でした。

ほんとうに自分が山歩きをしているときに、自然の中で感じる“これでいいんだ”という感覚、あの全部大丈夫になる感覚を、本で味わえます。

 

梨木果歩さんのペンネームは、京都の梨木神社を歩いていてつけたそうです。

彼女が好きだという梨木神社を訪れてみたいとおもいます。

 

 

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2件のコメント

  1. 山伏ガールさん お仕事お疲れ様です。 ゆったりと本に集中出来るお洒落なカフェですね! こちらではスターバックスとTSUTAYA書店が一緒になってコーヒーを飲みながら店内の本や雑誌が閲覧出来るスタイルのお店はあるのですが… 僕も読書が好きで,よく図書館へも行きます。 最近では歴史や哲学などにも興味を持ちました。 今まで読んだ本が増え続けて本棚に収まりきれない状況になりつつあります(^_^;) ご紹介の「海うそ」も面白そうな本(小説)ですね。 今度見つけて,じっくり考えながら読んでみたいと思います☆ P.S 比叡山,千日回峰行の修行体験ですが毎日新聞旅行社の大阪支店で時々参加者を募集しています。 興味を持たれましたら電話すればパンフレットを送ってもらえますよ♪

    1. 党首さん
      コメントありがとうございます!
      京都にもTUTAYAとカフェが一体となった蔦屋書店あります~。品揃えがいいんですよね。
      党首さんはブログなどされないんですか?わたしは人の書評を読むのも好きなので、
      もしやっていたら知りたいな~とおもいました。
       千日回峰行の修行体験の募集も教えてくださりありがとうございます!!
      ぜひチェックしてみますね!

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