前編の上賀茂神社についてはコチラ。
さて、京都の端っこの上賀茂神社からバスで市内の東山区に戻ってきまして、立ち寄ったのはこちら。
六道珍王寺です。
建仁寺の塔頭で、地元の人々には「六道さん」として親しまれています。
この付近は、かつて死者を鳥辺野という、平安京の東の墓地へ葬送する際、“野辺送り”の法要がされていた場所です。ここで見送りの人々は故人と最後のお別れをし、隠坊(葬送を生業とする人)により亡骸は鳥辺山のふもとへと運ばれて行ったそうです。
鳥辺野は文字どおりそこで鳥葬が行われていた場所ですね。他にも、蓮台野・紫野 ・化野(あだしの)など、京都には最後に野の着いた地名がありますが、それは葬送の地であった名残です。
ちなみに、その鳥辺野の場所は、現在の清水寺の付近です。わたしも今回この記事を書くまで知りませんでした。(笑)
延鎮上人がそれらの魂を供養しようと、宝亀9年(778)に“音羽の滝”近くに庵を結んだのが清水寺の始まり、といわれているそうです。現在は観光客が沢山でにぎやかな場所ですが、清水の舞台の下あたりが死体置き場だったんですね~。それを知ると、清水の舞台を見る目が変わりそうです笑
平安時代は一部の身分の高い人を除いて、大多数は決められた場所での鳥葬、風葬で、後に土葬が一般的でした。
だからか、死体や内臓の腐乱には馴染みがあるのか、仏教絵画の九相図なんかは死体の風化の様子がリアルで生々しいです。
九相図とは、野ざらしにされた死体が九段階を経て朽ちていく様子を描いたもので、それを見て煩悩を払い、肉体の不浄さや現世の無常さを知るものだそうです。わたしは特に、美女で有名だった小野小町の身体が腐っていく様子を描いた『小野小町九相図』(住蓮山安楽寺蔵)が気になってます。美醜も上の皮一枚の話で、老いて死に腐るのはみな一緒という教えですが、ちょっとブラックで意地悪ですよね。わざわざ美女でやるあたり、余計に仏教界の男性たちの執着が出ちゃっているような…。いつか本物を見てみたいです。
興味のある方は画像をググってみてください。
グロテスクなものは怖いけれど、人間の中には何故かそれに惹かれる“怖いもの見たさ”というものがありますよね。
九相図や地獄絵など、わたしも好きで学生時代の博物館実習では地獄絵ばかり集めた展示会のプランを練ったこともあります。地獄絵についてはまた詳しく書きたいですが、ほんとに地獄のバリエーションが豊かなんですよね。西洋だと、16世紀にメメント・モリ彫刻というのが流行りました。墓の装飾にカエルや蛇の纏わりついた髑髏をおいたり、人間の半分が人体模型のように骸骨だったり。
この九相図や幽霊図などにインスピレーションを得た、現代日本画家の松井冬子さんの作品も観るものを引きつける力があります。公式サイトはコチラで、絵も見られます。
怖いけど素敵!好きだけど、部屋には置きたくない絵ですね笑。怖すぎて夢に出そうです。
昔も今も日本人は美女の死体や幽霊や妖怪が好きなんですね・・・。
また、死体が腐っていく様子をみて、より一層死はケガレという概念と結びついていったのだと思います。
さて、この野辺送りの場所が「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったことと、小野篁がこの六道の辻から冥府へ通っていたことから、この六道の辻は“冥土への道”として世に知られていました。
小野篁(おののたかむら)。
わたしが好きな歴史上の人物の一人です!!なんといってもミステリアス。ウィキペディアによると「異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。」
野狂。
未だ人生で使ったことのない表現です笑
子どもの頃、「鬼の橋」という篁を主人公にした児童文学を読んでから、この本の印象が強くて篁はずっとダークヒーローです。
彼は昼間は朝廷 嵯峨天皇 に仕え、夜は本堂の裏にある井戸から冥界 閻魔大王に仕えたという伝説があります。
「今昔物語」の中には、病死した藤原良相が閻魔庁に連れてこられた際、同僚だった篁が閻魔大王の補佐にいるのを見て、吃驚仰天、篁に助けられて蘇生した話が載っています。
古今和歌集に収められている彼の和歌がこちらです。
「泣く涙 雨と降らなむ わたり川
水まさりなば かへりくるがに」
“わたしの涙が雨として降り注げばよい。三途の川の水が増えて渡れなくなれば、死んだあのひとはかえって来られるだろうに”
異母妹との悲恋を描いた「篁物語」もあります。平安時代末期、歴史上の人物や古歌を利用して生まれた説話を編集するのが流行ったので、この和歌から発想されたお話かもしれません。彼の別の和歌は百人一首にも選ばれています。
うた恋い。の4巻には篁の百人一首の和歌と遣唐使のエピソードが、異母妹との恋と絡めて描かれています。また、小野篁の親戚の小野小町も登場します。
なかなか続き出ませんが、このシリーズ大好きです。
篁はロマンティックな一面もありますが、野狂と呼ばれたのは正しいとおもえば権力にも堂々と立ち向かう力があるからです。
遣唐使は名誉な仕事ですが、その当時とても危険な賭けでした。
というのも、海に囲まれた国であるにもかかわらず、当時の日本の航海技術は運だよりで、ほんとにいい加減なものだったからです。船だって底が平たい和船だし。
篁は遣唐使の副使に命じられましたが2度難破し3度目は拒み、さらに遣唐使を非難する皮肉を盛りまくった漢詩まで作って嵯峨天皇を激怒させます。
この時期にはだいぶ唐からの文化も入ってきていたし、別に遣唐使でなくとも朝鮮や琉球つたいに大陸と交易するルートはあったようなのです。お金も人命も無駄だと篁は思ったんですね。
この時に篁が遣唐使を命じられたのは、彼一人の活躍で小野の名声が高まっていることに反感をもった藤原家の差し金という説もありますがどうでしょう。
天皇に激怒され篁は隠岐に流罪。その後菅原道真の進言で遣唐使が廃止され、優秀な篁は許されてまた朝廷で勤めます。
なんにせよ魅力的な人物なので、彼を題材に沢山物語が作られていて、宝塚の歌劇にもなっています。
色んな伝説が本物であるとおもえるほど、小野篁は文武両道、でも奇行も多い、魅力的でオーラのある特別な人物だったようです。
閻魔堂には小野篁の作と伝わる閻魔大王像があります。
この閻魔大王像も迫力がありますが、横の等身大の小野篁像、きりっと目元涼しくてめちゃくちゃカッコいいです!!これは必見です。
像は高さ180㎝を超えますが、篁が亡くなった時に記された伝記に背丈が6尺2寸(188cm)とあるので、等身大なんです。当時にあっては巨体です。そんな人並み外れた体格も、彼が閻魔大王の補佐と言われる一因だったのかもしれないですね。
本堂の薬師堂には木造薬師如来坐像があります。障子が閉まっていて、お守りなどはインターホンを押せば人が来るようなのですが、わざわざ出てきてもらうのも忍びないので隙間からそっと覗かせてもらいました。
本堂の横に“篁 冥土通いの井戸”があります。
六道とは、仏教の説く六道輪廻のことです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の6つの世界をさします。
山形の出羽三山の修験では、さまざまな修行でこの六道を巡り体験します。
人が死んでから、生前の業によって六道のいずれかに行くと信じられてきました。この井戸がその冥界への入り口であると考えらていたんですね。
特別拝観の日時は決まっているらしく、この日は隙間から覗かせてもらいました。
奥の右手にあるしめ縄がかけられた井戸が、冥土の通いの井戸です。
この鐘は、毎年盂蘭盆で精霊を迎えるために撞くので「迎え鐘」と呼ばれています。
“この鐘は、古来よりその音響が十萬億土の冥土にまでとどくと信じられ、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼びよせられるといわれている。”(六道珍王寺HPより)
ってコワ~~!!
そもそもこの鐘をついたら唐まで聞こえたので、唐まで響き渡る鐘なら冥土まで聞こえるだろうという話らしいです。
お昼ごはんに京ばんざいを頂いて、一休みしてから、
幽霊子育て飴のお店へ。
『みなとや幽霊子育飴本舗』は、なんと500年以上の歴史を誇り、日本でもっとも古い飴屋さんだそうです。
幽霊飴の話は、江戸時代に夜な夜な飴を買いに来る女のあとをついていったら鳥辺野の墓の前で消えて、その中から鳴き声がするのであけてみると、女の亡骸の横に生きた赤ん坊がいた、という話です。
女は三途の川の渡り賃で飴を買ってわが子に与えていたんだとか。母の愛は生死すら超えるのですね。
六道の辻 地蔵尊と呼ばれる、桂光山 西福寺さんも近くにあります。
ここのお寺は嵯峨天皇の時代に、弘法大師空海さんが自作の地蔵尊を安置したのがはじまりです。
昔は六道の辻ということで6つの仏堂があったそうですが、今は先ほどの六道珍王寺とここと、六波羅蜜寺の3仏堂が残っていて、8月のお盆の時期には「お精霊迎え」の六道詣りが何百年と続いているそうです。
お地蔵さまは元もと子どもの守り仏ですが、ここではさらにその色が濃いです。
嵯峨天皇の奥さんである檀林皇后が、皇子の正良親王が病に罹ったときに、秘仏の空海さんのお地蔵様に平癒祈願して、無事成長され仁明天皇に即位されたことから子育て地蔵尊と呼ばれています。
ちなみにこの檀林皇后、大変な美人だったそうですが、信仰深さかハンパではなく、遺言で「私の遺体は墓に葬らず、鳥や獣を養うためにそのまま道端に放置しなさい」と言い残し、自らの九相図を描かせ、今も残っています。
こちらも覚悟を決めて画像検索して下さい。
境内にある水子地蔵尊のところには、「子どものおもちゃや菓子などを置いていかないでください」との案内がでるほどで、そちらは見ていて胸が苦しくなります。親の子を思う気持ちは本当に深くて、いつの時代も変わりません。
本堂のほうに秘仏があります。空海さんのご縁なのか、たまたま秘仏を拝見できる機会があったのですが、すばらしくきれいな、清らかなお地蔵様でした。大きさはそんなにないのですが、すごいものが持っているオーラみたいなのがビンビンにあって、感動しました。
また秘仏ということで大切にされているのがよくわかる、木がとても綺麗な状態です。管理の方々が大切にされてきたから、何百年も昔のものに思えないほど、時間を超えてここにいらっしゃるんですね。とてもありがたいことです。
こちらのお不動さんも、子ども向けのちょっと可愛らしいお姿でした。
これが六道の辻3つ目の六波羅蜜寺です。
朱色の本殿は大きく、六道で一番大きいお寺です。境内には七福神も祀られています。
教科書に載っている口からミニの阿弥陀如来をだしている空也上人像や、平清盛像はここにあります。
あの像、ずっと何を口から出しているんだと気になっていたのですが、彼が口から出している阿弥陀如来は6体で、念仏を唱える空也上人の口から出る「南無阿弥陀仏」は一字一音が阿弥陀如来と同一であるということのようです。
残念ながら時間がなく重文のこれらの像は拝観できなかったので、また行ってみたいとおもいます。
それから清水寺の方へ。
16時と夕方にもかかわらず、すごい数の参拝者です。
着物姿の女性も沢山歩いていて、京都らしくていいなあとおもいました。
本堂の側面には木の木目に沿って直線状に傷がついています。
これは「弁慶の指跡」と呼ばれていて、弁慶が人差し指でつけた傷だそうです。
・・・どんだけ怪力なんだ。
実際のところは、昔願掛けのためにお百度参りをした人々が、夜になると辺りは真っ暗になって、何も見えなくなるために、目印として本堂に付けられたものだそうです。「話が堂々巡りする」のお堂は、この清水寺のお堂をお百度参りで回るところから生まれたそうです。
お百度参り、神仏に100日お参りするので願いを叶えてもらうというものですが、神仏との約束なので嵐が来ようが病気にかかろうが必ず果たさなくてはなりません。それくらい強い気持で願うことなら、たしかに叶えられるのかも。
清水の舞台から風景をみながら、そんなことをおもいました。
清水寺の境内にある地主神社。縁結びで有名なので、とても混んでいます。
奥の方には昔使われていた丑の刻詣りの藁人形が打ち付けられていた木があって、杭のあとが沢山残っているのを見てゾッとしました。
まず、昔は死体置き場だった清水寺に深夜一人で来るというのが怖いです。それをなんとも思わないほど憎い人がいるという人間の心理も怖いなとおもいました。
京都の名所の清水の舞台ですが、この舞台の下あたりには昔は…と思うと、今までと違った目でみえてきますね。
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楽しめました。
高台寺の竹林もライトに照らされて幽玄な美しさです。
見上げていると、吸い込まれそうな、怖いくらいの闇がありました。
京都は夜も怖くて楽しいです。
これにて秋の京都旅はファイナルです。京都は何度訪れても楽しいですね。
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